山西省太原市の南西方向約25キロを離れた所に山明水秀、鳥がさえずり花が香る景色美しい観光名所がある。それは長い歴史と国の重要文化遺産として有名な晋祠である。


唐叔虞祠

晋祠-最初の名前は唐叔虞祠でした。晋の開国諸侯-唐叔虞を記念する為建てられた祠堂。唐叔虞の姓は姫、名虞、字は子于。周武王の子供、成王の弟である。中国漢の時代司馬遷著書の『史記・晋旧家」の中では“剪桐封弟”の物語があった。その物語は成王がどうやって叔虞を唐の諸侯にしたかを述べた。“成王立ち唐が乱れ、周公が唐を殲滅。成王と叔虞が戯れ、削桐叶が叔虞に「これに貴方を封ずる」史佚は後日叔虞を封じようとすると成王が”‘私は貴方と冗談だと’言い。史佚曰く:‘天子は戯言がなし、言葉は史書のよう’そして成王が叔虞を唐の諸侯に封じた。

叔虞が唐にいた後、晋の水を利用し農業を発展させ、唐国の庶民も豊かな暮らしができた。その後八百年間気候よく、国泰民安の繁栄光景を続けられた。叔虞が亡くなった後、彼を記念する為この景色の良い場所に祠堂を建てられ「唐叔虞祠」を命名した。叔虞の息子燮父即位後、境界内晋水が流れていたので国号を「唐」を「晋」に代え、祠堂を「晋王祠」に改名、略して「晋祠」となった。これで晋祠は三千年の歴史あると分かった。一番早く文字で記録したのは北魏の地理学者郦道元の≪水经注≫でした。“沼西际山枕水,有唐叔虞祠,水侧有凉堂,结飞梁于水上”の記載から見ると1500年前から晋祠は相当の規模でした。晋祠が創立した以来、何度も修理、増築と模様を変えたため儒、釈、道それぞれの特徴を取られた古い建築群となった。祠内既存している宋、元、明、清は様々な建築100座余り。その中、宋建聖母殿、魚沼飞梁、金代の献殿は国家文化部から国の三大建築国宝を鑑定された。


金人台

晋祠の中軸に4体宋の時代の鉄武士像が900年の年月を経った今でも依然と凛々しく佇立している。その対面には聖母殿中の宋の時代に代表しているカラー泥人形。特にその中の33尊侍女像の姿が美しく生き生きとしいる。普通の彫刻と違って固い表情ではなくまるで感情がある人間の顔のようです。その表情から私たちに無限大の想像を与え、その彩色の塑像中に身を置いたように彼女たちの笑い声やひそひその囁き、ひそかに嘆くが聞こえる。1954年、中国の彫刻芸術家-刘开渠先生がこの組塑像を見た時思わずそう「これは人の社会に忘れられない叙情的な、美しい境界」と感嘆した。もっと絶賛したのは、宋代の鉄のように強く武士の鋳造と宋塑性侍女の柔和の美しさが対照的になったのは決して偶然ではなく哲学上の弁証法、美学上のバランス感覚とこれらの古代無名の彫刻家の手で微に細をうがっていることを感心した。

晋祠の美しさはそれだけではなく、大自然不思議の力で祠内に清く澄んだ “難老泉水”を創られた。その“難老泉水”について唐代の詩人の李白が晋祠に訪れた時“时时出向城西曲,晋祠流水如碧玉。浮舟弄水萧鼓鸣,微波龙鳞莎草绿。”の素晴らしい詩を作りました。その意味とは:この長くて流れて止まらない泉、晋祠に無限の活力をもたらした。祠内に千年の古木に20本、特に周柏、隋槐。周柏は西周時代に植え、聖母殿の左側に位置する、木の幹は柏の斜めに寄りかかっている。その形は龍が横になっていると似ているため、“卧龍柏”と命名したので人に忘れがたい印象を残る。宋代の文学家欧阳修が“地灵草木得余润,郁郁古柏含仓烟”の詩句でそれを賛美した。以上から分かるのは九百年前から雄勁な古木で有名でした。でも今日までもう清清と茂っている。故に宋時代の侍女塑像、難老泉水と一緒に“晋祠三绝”と呼ばれている。

千百年以来、晋祠は長い歴史、奇抜な景観で数多くの名人や歴代の皇帝を引寄せた。これらの有名人が遊覧の際、沢山の名詩を殘こした。晋祠の石碑は300個余りある。唐太宗李世民が自作した「晋祠之銘并序』の碑最も素晴らしい。公元646年、太宗皇帝が高麗を討伐凱旋の途中、群臣を連れ再び晋祠を訪れ、当時の出世神祠と国の為に貢献した唐叔虞を思い出しこの碑を立った。この碑は彼が晩年の政治思想の主張と絶妙な書道の代表作として千古名碑と呼ばれている。王羲之に続き《蘭亭序》後のもう一枚行書大作となった。

1959年、郭沫若先生が晋祠に訪れた時有名な《游晋祠》を書き“圣母原来是邑姜,分封桐叶溯源长。隋槐周柏矜高古,宋殿唐碑竞炜煌。悬瓮山泉流玉磬,飞梁荇沼布葱珩。倾城四十宫娥像,笑语嘤嘤立满堂。”素晴らしい詩で晋祠を絶賛した。

晋祠は大自然に恵まれ綺麗な山と清く澄んだ水に囲まれ、彩色を施した梁や棟など極めた古い建築群の引き立てでまるで仙境に訪れたようです。正にレジャー、娯楽、寻幽、古代遺跡探求の良いところだ。

晋祠三大国宝建築

宋代塑像侍女像--晋祠三絶の一つ。聖母殿の中には色彩塑像が43体完璧に残されております。神かんの中に小さい像が二体明代補塑以外、ほかは北宋時代に造られました。中では主像が一体、侍従像42体があります。真ん中に安置されたのは主像の聖母邑姜で、鳳冠をかぶって、錦上の服装を着て、胡坐をかく姿はその支配者の高貴さと贅沢さを物語っております。侍従像の中では男性服装を着ている女官像が4体、宦官像が5体、侍女像が33体あります。塑像の高さから見れば当時の人間と等身大と考えられます。顔の表情、手の中の持ち物、服装、髪の結い方などがそれぞれ違っております。それによって、身分と担当仕事は何とか判明することができます。北宋宮廷の六尚という制度に乗っ取って造られたものです。なかなか写実性が高くて、活気が満ちる作品です。人物は皆西周時代で、実際的には宋代のことを反映しております。神かんのすぐ手前に二体の宦官像は伝令使です。真正面から聖母を見てはいけないなので、聖母の話を聴き漏れることを恐れて、耳を立てて、一生懸命に聴いている様子です。目玉も聖母のほうに合わせて、聖母の動きに気を使っております。それでは幾つかの塑像を例としてご案内します。南壁に東からの二体目をご覧下さい。これは年配宦官で、人生の半分は宮廷の中に過ごしました。肩にタオルを掛けて、眉際に何かを考えそうに見えますが、彼は聖母の料理人です。毎日、料理の内容と味付けに頭を絞って悩んでいる姿です。次には四体目をご覧下さい。これは年配侍女像で体柄から見れば若い時踊り子かもしれませが、年を取ってから重視されなくなって宮廷の裏で体力仕事をさせられております。彼女の目の中からなんの見込みも読めなくて垂れ下げた口角から現実生活に対する不満を感じられております。また、向かって神かんの右側に西からの二体目をご覧下さい。これは歌舞侍女像で手の中に絹のハンカチを持って、頭に赤いスカーフをかぶって、無邪気な少女の格好をしております。頭がやや低く垂れて、正面から見ると恥ずかしそうな表情をしていますが、まるで聖母に一曲歌わせたばかりで、賞賛されて満足と感激でいっぱいのような姿です。しかし、側面から見れば彼女の目が赤く腫れていて、涙も含んでいるように見えます。たぶん若いうちにこの奥深い宮廷の中に込められて、人の前で無理に笑顔を見せますが裏で悲しくて哀愁の日日ばかりでしょう。人物の内心世界まで表して、これらの塑像は誠に芸術性の高い作品です。このような塑像の群は全体的に残されたことが国内でも数少ないです。多くの学者から好評を受けております。唐代までに造られた作品は主に宗教とか神様とか絡んでいて、貴族文化と言えますが。特に宋代から市井文化即ち庶民文化が台頭になって、民間に浸透したから、このような見事な侍従像即ち一般庶民像が作り出されております。

魚沼飛梁--晋祠三大国宝建築の一つ。水たまりのことを中国古代からの言い方では丸いものが池、四角のものが沼と言います。ここは四角の形なので、また、中に魚も泳いでいますから、魚沼と言います。十字型を成す橋で、高所から見下ろすと大きな鳥が翼を広げて飛びそうに見えますから、飛梁と言います。現存した建物は本堂の聖母殿と同時代に造られて、北宋時代になります。元々の特色を残っております。目前ではこのような橋がここ一箇所しかないです。形から言えば中国の一番最初の立体交差橋と言えるでしょう。中国の古代橋梁を研究する上で極めて重要な資料になって、貴重な存在です。

献殿--晋祠三大国宝建築の一つ。金(女真族が打ち立てた国)大定八年(紀元1168年)に創建されたものです。新中国が成立後の1995年に復原されました。本堂の聖母殿の供え物を置く場所として、この名前を付けた訳です。間口は3間、奥行は2間。周りに壁ではなくて、柵で廻らすのが珍しいことです。全部、木で出来た殿堂として、木と木が噛み合って、釘一本も使われておりません。ご覧のとおりに、屋根の重さは枡組みを通って各柱に分散していますから、地震に強い造り方です。

晋祠三絶

宋代塑像侍女像--晋祠三絶の一つ。聖母殿の中には色彩塑像が43体完璧に残されております。神かんの中に小さい像が二体明代補塑以外、ほかは北宋時代に造られました。中では主像が一体、侍従像42体があります。真ん中に安置されたのは主像の聖母邑姜で、鳳冠をかぶって、錦上の服装を着て、胡坐をかく姿はその支配者の高貴さと贅沢さを物語っております。侍従像の中では男性服装を着ている女官像が4体、宦官像が5体、侍女像が33体あります。塑像の高さから見れば当時の人間と等身大と考えられます。顔の表情、手の中の持ち物、服装、髪の結い方などがそれぞれ違っております。それによって、身分と担当仕事は何とか判明することができます。北宋宮廷の六尚という制度に乗っ取って造られたものです。なかなか写実性が高くて、活気が満ちる作品です。人物は皆西周時代で、実際的には宋代のことを反映しております。神かんのすぐ手前に二体の宦官像は伝令使です。真正面から聖母を見てはいけないなので、聖母の話を聴き漏れることを恐れて、耳を立てて、一生懸命に聴いている様子です。目玉も聖母のほうに合わせて、聖母の動きに気を使っております。それでは幾つかの塑像を例としてご案内します。南壁に東からの二体目をご覧下さい。これは年配宦官で、人生の半分は宮廷の中に過ごしました。肩にタオルを掛けて、眉際に何かを考えそうに見えますが、彼は聖母の料理人です。毎日、料理の内容と味付けに頭を絞って悩んでいる姿です。次には四体目をご覧下さい。これは年配侍女像で体柄から見れば若い時踊り子かもしれませが、年を取ってから重視されなくなって宮廷の裏で体力仕事をさせられております。彼女の目の中からなんの見込みも読めなくて垂れ下げた口角から現実生活に対する不満を感じられております。また、向かって神かんの右側に西からの二体目をご覧下さい。これは歌舞侍女像で手の中に絹のハンカチを持って、頭に赤いスカーフをかぶって、無邪気な少女の格好をしております。頭がやや低く垂れて、正面から見ると恥ずかしそうな表情をしていますが、まるで聖母に一曲歌わせたばかりで、賞賛されて満足と感激でいっぱいのような姿です。しかし、側面から見れば彼女の目が赤く腫れていて、涙も含んでいるように見えます。たぶん若いうちにこの奥深い宮廷の中に込められて、人の前で無理に笑顔を見せますが裏で悲しくて哀愁の日日ばかりでしょう。人物の内心世界まで表して、これらの塑像は誠に芸術性の高い作品です。このような塑像の群は全体的に残されたことが国内でも数少ないです。多くの学者から好評を受けております。唐代までに造られた作品は主に宗教とか神様とか絡んでいて、貴族文化と言えますが。特に宋代から市井文化即ち庶民文化が台頭になって、民間に浸透したから、このような見事な侍従像即ち一般庶民像が作り出されております。

周柏--晋祠三絶の一つ。晋祠は中国最初の唐宋時代の庭園づくり祠堂として、植物が茂っております。千年以上の古木は20本あまり持っております。樹齢が一番長いなのはこの周柏です。約3000年の樹齢で、高さは18メートル、直径は約2メートルです。南方向に四十五度傾けております。又、龍柏とも呼ばれております。因みに古代記載によって聖母殿の向こう側に鳳凰柏もあったわけです。清の末期に鳳凰柏はウイルスが生じて、龍柏への感染を恐れて、切り倒されました。不思議なことで龍柏の下にいつか自然に小さい木が一本出てきて、大きくなってから、ちょうど倒れそうな龍柏の支えになって現在の格好になっております。今、晋祠は積極的に世界文化遺産を申請しております。現存した古木の樹齢を詳しく把握するために2002年3月に専門家がいろんな古木に科学鑑定を行った結果にこの周柏ともう一本の柏とは2990年の樹齢になります。青々とした古木周柏は晋祠3000年の歴史の証拠となっているばかりではなくて、きりのない晋祠の魅力を物語っております。

難老泉--晋祠の三絶の一つ。東屋は北斎天保年間(紀元550年前後)に建てられて1500年あまりの歴史を持っております。現存したものは明嘉靖年間に再建されました。難老泉の水は切れ間なく湧き出て、晋祠の水源になっております。泉の水は常温で常に17℃、冬でも凍らないです。清らかな水は底まで見えます。東屋の天井に難老という額が掛かって、晋祠の三大扁額の一つとして、題字者は傅山で明末期清初期の有名な書道家でした。下のほうに晋陽第一泉という額も掛かって、晋陽とは唐代太原市の地名でした。有名な詩人李白も晋祠に訪れたことがあって、「晋祠の水の流れが碧玉ごどく」という難老泉を詠む漢詩も残っております。

交通アクセス

飛行機ご利用の場合

飛行機ご利用の場合太原武宿空港→車で高速直通30分→晋祠龍城通り経由滨河西路から30分

新幹線&電車(火車)ご利用の場合

太原火車駅→直通バス(804,856,308路)→晋祠タクシーで南中環街経由滨河西路から30分

営業時間

8:00--18:00 [4月--10月]

8:30--17:00 [11月--3月]

館内施設とサービス項目

観光客センター、お土産売店、雷鋒学習センターなど観光案内、ガイド、コンサルティング、苦情、郵政、医療救護等のサービスなど

隣接観光スポット

天龍山石窟まで13キロ

龍山道教石窟3キロ

太山寺6キロ

祁県民俗博物館50キロ

平遥古城(世界遺産)90キロ